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加藤俊寿さん著 『僕らは冬の知床で』 

『僕らは冬の知床で』は、私の青春の1ページである北海道の知床が舞台の小説です。

愛知県の会社員、加藤俊寿さんが今夏自費出版されました。


発刊されたことは、情報筋から情報をもらっていたのですが、なにぶんゴルフ観戦三昧の日々を過ごしていたので、買いそびれていましたが、またまた情報筋からそろそろ店頭から・・・などという情報をキャッチ!!

忘れないうちに!と楽天ブックスで発注しました!!


著者の加藤さんが知床を訪ねたのは昭和58年の冬とのことなのですが、私が冬の知床の魅力にハマッたのは昭和60年の3月。
2年の違いはありますが、ほぼ似たような時代と、同じ冬、同じ知床ユースホステル(現在は、「夕陽のあたる家」としてホテル営業。)を拠点とした旅のことが描かれているということなのでとても楽しみです。


私が、初めて知床を訪ねたのは昭和55年の夏だったと記憶していますが、国鉄(当時)の「北海道ワイド周遊券」(20日間有効)を利用して、ユースホステル泊と夜行列車の車中泊の概ね半々の有効期間ほぼいっぱい(だったはず・・・)の旅をしました。

で、その旅の途中で知床を訪れたのですが、バスでカムイワッカの滝の登り口まで行って、有名な滝つぼ露天風呂まで往復して宿を予約していたウトロに戻ったのですが、あいにく低く雲が立ち込める天気で・・・知床ってなんて寂しいところなんだろう・・・というのが初めての知床の印象でした。

高台に上るのが面倒だった私は、高台の知床ユースホステルではなく、市街地にあったウトロユースホステル(たしか、その後数年で廃業)に投宿。3段ベッドの恐怖の最上段に寝たのは今となってはいい思い出です。(いい思い出いっぱいですが・・・)

二度目の知床訪問は、昭和60年の3月でした。
いろいろと『考えること』があって訪れた北海道でした・・・
このときも「北海道ワイド周遊券」を利用した旅でしたが、最初に目指したのはサロマ湖でした。流氷が見たくて。

ちょうど氷上大運動会があって、宿泊者は全員参加。運動会目当てに来ているという人も結構いました。
で、私も参加。みんなと思い切り楽しみました!
そしたら、『考えること』などどうでも良くなって・・・
ていうか、忘れてしまいました!
サロマ湖畔ユースホステルに連泊した後、知床に向かい、今度は高台の知床ユースホステル(現在は、「夕陽のあたる家」としてホテル営業)に宿泊。
歩くスキー(クロスカントリースキー)で幌別のゲート(今は、真冬でも知床自然センターまで除雪が入るのかな?)から知床峠まで往復するオプショナルツアーに参加して、国後島を眺めることができて大感激!
あー、良かった良かったと夕方ウトロに戻ってきては、オロンコ岩や三角岩あたりから流氷原(正確には、流氷原の向こう側の網走方面の陸地に沈むのですが・・・)に沈むそれはそれは素晴らしい夕陽と、夕焼けと、酒に酔いしれる数日を過ごしました。

最近は、地球温暖化の影響で、流氷の勢力が弱くなってしまっているそうですが、当時の流氷は海流と季節風で知床半島に押し寄せられて、盛り上がる「流氷山脈」と形成するほどの迫力がありました。
ぎっしりの流氷原に沈む夕陽もいいのですが、春一番が吹いて、一旦沖に戻された流氷が、再び海流や風でもどされてきた、ある程度隙間のあいた流氷の海に沈む夕陽が私は一番好きでしたね・・・

振り返ると、雪で白い知床連山が夕焼けでピンクに色づいていたりなんかして、自然の素晴らしさを満喫させてくれたのが知床でした・・・


当時、知床ユースホステルには、連泊者プレゼントがあって、まずは3連泊すると「斜里窯」という窯元で焼かれたコーヒーカップがもらえたのですが、それをもらって知床を出て、霧多布、再びサロマ湖(今度は船長の家という民宿)と回って再び知床に戻りたくなって、知床へ。
今度は、2、3泊で出るつもりだったと記憶していますが、とある事情で、知床を出るはずが終バスを見送って再びユースに。
そこから、異常連泊者としての強制労働が始まりました・・・

ウソ。


でも異常連泊者としての扱いを受けたのは事実で・・・

異常連泊者専用の部屋に隔離されることになったのです・・・


冬の知床の厳しい気象条件の中、それはそれは楽しい日々が・・・
結局、出戻ってから一週間くらい滞在したかな。

楽しかったなあ・・・


あー、早く『僕らは冬の知床で』読みて~~~

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